悟りは自我から無我への相転移

悟りは自我から無我への相転移。悟りを哲学、心理学、宗教、脳科学から解説します。

8)悟りと漸悟 8-2-1-3)自我消滅か自我肥大か

8-2-1-3)自我消滅か自我肥大か

臨済は、修行中に「瞑想により仏陀や如来が現れたときは槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」と教えています。明晰夢状態での出来事ではないかと思います。瞑想中に神格を持つものとの一体感を持った結果、消滅させるべき自我を逆に肥大させてしまうのを恐れました。

例えば、江戸中期の禅僧白隠禅師も、24歳の時に鐘の音を聞いて見性(悟り)体験しましたが、増長(自我肥大)しています。更に修行を進め、42歳の時にコオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成(自我の消滅)したそうです。

個人的な感想に過ぎないのですが、聖書に登場するサタンは自我肥大した修行者ではとも感じます。

自我肥大とは、自我(意識)が拡大するにつれて風船のように皮(自我の壁)が希薄化するべきだが、自我が高みに立って他人を見下したり、自分の能力を過信して傲慢な言動をとる心境になることです。高い能力を持ったことで、今までどれほどの人々が自我肥大(自我インフレーション)を起こして高みに昇ってしまい墜落して来たことか。

仏教では、それを魔境という。禅の修行者が意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態です。ユング心理学でも自我肥大を指摘しています。

それで仏教では、悟り後の自我肥大を恐れて、悟後の修行(聖胎長養)を重視します。というのは、修行が済み、ある境地を得たといっても、それを真に無碍自在に活用できるようになるためです。一度悟ったとしても、慢心しているとすぐ迷妄に逆戻りするからです。悟りとは、ある意味学業の卒業でその後に社会での実践が始まります。

8)悟りと漸悟 8-2-1-2)自我を越え出る感覚(自我意識)

8-2-1-2)自我を越え出る感覚(自我意識)

悟りに近づくにつれて、仏教を信じる人々は、自分という感覚(意識)が広い空間いっぱいに拡大したと感じます。あるいは空間に漂い出す感覚を覚えます。科学の世界で、電磁気で脳の右側頭頂葉の「角回」を刺激すると、被験者の意識が2メートルほど舞い上がり、天井付近からベッドに寝ている自分を見るという幽体離脱を経験したそうです。つまり意識は身体に限定されるものではないことを表します。

例えば中国から臨済宗を持ち帰った栄西禅師の「興禅護国論」の序文を紹介します。

「大いなる哉、心や天の高きは極む可(べ)からず、しかも心は天の上に出づ。地の厚きは測る可からず、しかも心は地の下に出づ。日月の光はこゆ可からず、しかも心は、日月光明の表に出づ。

大千沙界は窮むべからず、しかも心は大千沙界の外に出づ。それ太虚か、それ元気か、心は則ち太虚を包んで、元気を孕むものなり。

天地は我れを待って覆載し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生す。大なる哉、心や」。

この自我(意識)の超出感覚を、キリスト教では、神(イエス、精霊)との一体化などという表現を使います。自分(意識)が自分の身体だけに収まっているのではなく、より大きな存在と一体化するという感覚を持ちます。

悟りの初期の段階では、自我は自分を越えて拡張し、あらゆるものに繋がっている感覚です。途中段階(この時期は長い)では、自我は脳内に残っており、都度都度その自我が浮上して来ます。最終段階になると、自我という感覚は完全に消滅します。

梵我一如について、「宇宙を支配する原理」である梵(ブラフマン)と、個人を支配する原理である我(アートマン)。アートマン(我)とは、「目に見えない視覚の主体、耳に聞こえない聴覚の主体、思考されない思考の主体、認識されない認識の主体」です。感覚機能はあるが、感覚主体は存在しない。私の感じでは、我とは「認識する個人内機能」(自我意識)ではないかと思います。

8)悟りと漸悟 8-2-1-1)自我感覚(自我意識)の変化

8)悟りと漸悟

8-2-1-1)自我感覚(自我意識)の変化
あらためて自我意識とは何でしょうか。「意志、知覚、思考、記憶、感情、決断、行為など」を「自己同一的な主体」として遂行し、これらを「他者や外界から区別して自分自身のものだと意識」する態度です。私は、自我意識(自我感覚)の出処(源・中枢)は、島皮質だと感じます。島皮質については、「2)「自我」と「島皮質」」章の「1-4-0)情報集積基地の島皮質と自己意識」節以降で説明しました。
既に前の「7)仏性と修行」章の「7-5-3)意識とオートポイエーシス理論」節で取り上げたのですが、自我意識について興味深いシステム論をあらためて紹介します。それが「オートポイエーシス」です。オートポイエーシスは、システムの構造面ではなく、「作動」(機能、働き)を中心にして組み立てたシステム論です。
「システムは作動することによって自らの境界を区切り、作動することによってみずから存在する。システムはみずからの作動そのものによって、内部と外部を区分するのであって、システムの作動に先立っては内部も外部も存在しない」という。
というここで、自我意識をオートポイエーシスのシステム論から眺めると、自我(意識)と無我の関係が見えて来そうに思えます。つまり自我意識は固定的な構造を持っているわけではなく、ただ機能(働き)は、身体が作動(スイッチ・オン)している間だけ立ち現れる機能です。身体の働き次第で、瞬時に無我となります。
「3)意識」の「3-2-2)統合情報理論」で、「統合情報理論」を紹介しましたが、統合情報理論も意識を機能と見なしています。勿論その機能を成立させる構造はありますが。しかしオートポイエーシスは、その構造を見るのではなく、それが作動することで生まれる機能を見ます。構造のその構成要素が生まれ出た機能の存在範囲を決定づけます。同じように統合情報理論も情報という脳の構成要素が意識を生み出すという。更には情報の統合度が上がれば上がるほど意識は強くなるという。
これを自我に当てはめてみます。幼時期の自分だけに向けられていた関心(社会性)が、成長するにつれて家族・友達・異性・趣味・学業・思想・仕事へと広がり積極的に参加するようになります。この関心(社会性)の高まりと広がりも統合情報理論とオートポイエーシス理論を使うと説明がしやすくなります。
注)余談ですが、電気的現象・磁気的現象である磁場・磁界は、電流が作り出す物理現象です。これもオートポイエーシスのシステム論で説明できそうに思えます。

8)悟りと漸悟 8-2-0-1)漸悟への過程の概略

8-2-0-1)漸悟への過程の概略

先ずは漸悟への過程の概要だけを述べますと、

1)自我は、自分と関係あるものと無関係なものを区別し、関係するものに強い執着(関心)を示します。強い強固な狭い「自我」「自我意識」という感覚(壁)が徐々に薄れて行きます。一言で言えば、「自我の希薄化」の進行です。それと同時並行的に意識が拡大して行きます。分厚い狭い意識から薄い広い意識へと変化して行きます。

2)「雑念」「煩悩」「執着」「コンプレックス」などが少なくなって行きます。これは煩悩などの減少と自我の希薄化と意識の拡大とが同時平行して進みます。

3)雑念・煩悩が少なくなると、過去・未来へのとらわれ(執着)が弱くなり、「今」(即今)に「集中」します。今への集中力、集中持続力、没頭力が強く高くなって行きます。

4)雑念・煩悩・コンプレックスにとらわれないので、感情的にならずに泰然自若とした冷静(不動心)でいられます。最終的に心は「涅槃寂静」となります。

5)徐々に根拠がないが心に確信的な基本的信頼感(性善説)に包まれあるがままを受け入れて行きます。

ではそれぞれの過程を見て行きます。

8)悟りと漸悟 8-2-0-0)漸悟への過程

8-2-0-0)漸悟への過程

ここからは漸悟、時間をかけてじっくりと修行(瞑想、坐禅など)をして悟りに近づくにつれてのいくつかの相で現れる変化を見て行きます。というのは、頓悟は仏教修行に専念する者でないと困難ではないかと感じるからです。それに対して漸悟ならば、仕事、学業、趣味、スポーツ、読書などでも可能です。

その相については、例えば1)「自我感覚、自我意識」、2)「感情」、3)「認知」、4)「集中力」などに変化が現れて来ます。

なお認識に関しては、自我(心)のみが実在し、他者や(外的)世界はその自我に現れる現象にすぎないという考え方を「独我論」といいます。それに対して、西田幾多郎は、「善の研究」で「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」という。つまり個々の自我や心(意識)が先にあるのではなく、(純粋)経験が先にあってそれを個々の自我や心が(独自的に)覚知するという。普遍が先にあって、それを個々の自我が独自解釈をするという。

故に独自的に覚知する自我(心)が薄れてついには(純粋)経験のみになって行きます。経験を解釈する、独自(個別)化する自我(心)が薄れて最後に消えてしまえば、そこにはただ一つの純粋経験だけが残ります。その時点が悟りです。

8)悟りと漸悟 8-1-3)キリスト教神学者エックハルト

8-1-3)キリスト教神学者エックハルト

マイスター・エックハルトは、中世ドイツのキリスト教神学者で神秘主義者です。キリスト教神秘主義の源泉は、パウロやヨハネのキリスト体験です。パウロの場合は、イエスの死を死んだ後にイエスの生を生きるという体験です。

注)パウロのイエス体験は、次章「9)成長」で簡単に言及します。

エックハルトはいう、「汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう」という。

「極限の無になることで自分を消し去ったとき、内面における神の力が発現し、被造物の内にありながら創造の以前より存在する魂の火花が働き、魂の根底に神の子の誕生(神の子としての転生)が起こる」という。

「被造物から生まれたものは被造物に悩まされるが、被造物にあらざる神の子として生まれ変わったものは被造物による悩みを持ちようがない」という。「被造物」を自我と言い換え、「神の子として生まれ変わったもの」を無我と言い換え、「悩みを持ちようがない」を「涅槃寂静」と言い換えると自我から無我への悟り(涅槃寂静)と同じです。

「離脱はあらゆる物から脱却し、神をみずからの内に迎え入れて神を神たらしめる」という。これは道元の心身脱落を思い浮かべます。

8)悟りと漸悟 8-1-2)イスラム神秘主義

8-1-2)イスラム神秘主義

イスラム教において精神修養に重きを置いた宗派が9世紀以降に生まれ、修行によって自我(自我意識)を滅却し、忘我の恍惚の中で、二元的対立を超えた神との神秘的合一を究極的な目標とする内面化運動を、特に「イスラム神秘主義」という。神との合一とは、自己についての意識(自我意識)がなくなり、神の中に包摂されて一体化(無我)した状態をいう。

精神的な修行として、神の名を繰り返し唱え思念を神に集中させる方式です。あるいは回旋舞踊という身体の運動を通したスーフィズムの修行方式もあります。

注1)仏教での盆踊りや念仏、読経は集中や忘我などと同じ趣旨です。

注2)神秘主義とは、絶対者(神、最高実在、宇宙の究極的根拠など)を、その絶対性のままに人間が自己の内面で直接に体験(合一)しようとする哲学や宗教思想をいう。

ある(イスラム神秘主義を奉ずる)修行者はいう、「蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、わたしは自分という皮を脱ぎ捨てた。...私は彼だったのだ」。(私=彼=神)。この表現は、「女神イシスを覆うヴェールの物語」を思い出させます。

8)悟りと漸悟 8-1-1)エジプトの女神イシスを覆うヴェールの物語

8-1-1)エジプトの女神イシスを覆うヴェールの物語

エジプト神話には、豊穣と知恵の象徴である女神イシス(大地の神ゲブを父に天空の女神ヌトを母に持つ、背中にトビの翼[空間の超越]を持った女神、生と死を操る強大な魔力[時間の超越]を持つ)がいます。豊穣の女神、月の女神、復活の女神、魔術の女神でもあり、古代エジプトで最も崇拝された女神でもあります。イシスは人類と神々の間を繋げる役目を持っています。

ある探求者が、女神イシスを探し求めた末、やっと見い出して、その顔のヴェールを引き上げた途端、そこに現れたのは自分の顔であったという。

エジプトのイシス神殿に書かれている銘文「わが面布を掲ぐる者は語るべからざるものを見るべし」(私の顔にかけた布を取り払って素顔を見た者は、言葉にできないものを見ることになる)。梵我一如です。我(私)が梵(神)に出逢った瞬間です。私はあなただった、あなたは私だった。

私的な解釈をすると、女神イシスは、無我(悟り)(魂)を象徴します。言葉を使うのは自我であるが、無我(悟り)の世界は言葉で表現できない(語るべからざる)世界(不立文字)です。「不立文字」「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」すべき世界です。自我の世界には時間空間の縛りがありますが、悟り(無我)は心の(時空間の)自由自在性を獲得することなので、それを翼を持つということで表現します。仏教では悟りは「生労病死」(苦)を超越することなので、「生と死を操る強大な魔力」と表現していると思います。

「語るべからざるもの」から、私は「舌切り雀」を思い出しました。「舌切り」から「不立文字」を連想し、舌切り雀が向かった先「語るべからざるもの」(悟り世界)を求めておじいさんが苦労(修行)する話として「舌切り雀」を解釈しました。

紀元1世紀のギリシャの歴史家プルタルコス(プルターク)はイシス神殿に次の銘文が刻まれていると書いています。「私は、かつてあり、今あり、これからあるもののすべてである。私のヴェールはこれまで人間(死すべき者)によって引き上げられたことはない」と。イシスのヴェールを引き上げられるのは、死すべき人間(自我)から時空間を超越した仏(無我)になったものだけです。

8)悟りと漸悟 8-1-0)仏教以外での悟りの心境

8-1-0)仏教以外での悟りの心境

仏性は人類普遍に持ち合わせいますから、洋の東西を問わず悟り現象は生じます。ということで様々な表現で言い表されています。例えば、覚醒(仏性の開花)、ワンネス(無我によって達成する自他一如の世界)、自己超越(自我から無我へと)、大我(無我)、ハイヤーセルフ(自我よりも上位階層にある無我)とも表現されます。要するに、心が今まで自我を向いていたのを相転移させて無我を向く(仰ぎ見る)ことです。心が今まで自我(意識)からの情報を受け取っていたのを相転移させて無我(純粋経験、脳全体)から情報を受け取って行くことです。キリスト教的に言えば、今までパンを食べていたのを、神の言葉を食べるようになったのです。

 

8)悟りと漸悟 8-0)悟りとは、悟るとは

8-0)悟りとは、悟るとは

悟りについては、前章の「7)仏性と修行」章の「7-6)悟りとは」節で幾分か説明しました。そこでは仏教に限定した悟りを紹介しましたので、ここからは更に詳しく多方面から説明して行きます。

悟るとは、迷い(自我)の世界を超え出て、真理(宇宙[神]の真理)を直接体得(純粋経験)することです。いな、私達は誰でも現に純粋経験をしているのですが、それは一瞬だけで、直に自我(メタ認知)によって分別してしまいます。自我がなければ、純粋経験は純粋経験のままに、つまりあるがままに、作為を加えず無為自然に、自然法爾に受け取れます。別の面からいえば、(心理面では)涅槃(煩悩や執着からの解放)や(自我から無我への)解脱(無執着)ともいえます。

悟りは、精神面、心理面、脳的成長の結果起こる到達点(実際には通過点)です。つまり仏教世界だけで起こる現象ではなく、仏性は仏教者だけが持つものでもなく、人類普遍に付された潜在的能力なのです。「一切衆生悉有仏性」(涅槃経)とあります。道元はいう、「この法は人々分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」。禅の修行を修、悟りを証という。登山は一歩一歩登ることで山頂に到着します。山頂到着時を開悟というとしても、一歩一歩の修行も一歩分の悟り(成長、成果)であるという。

7)仏性と修行 7-7)何故煩悩を持っているのか

7-7)何故煩悩を持っているのか

認知機能を「自我から無我へ」と切り換えることで悟りを開きますが、もう一つの側面として、心が「煩悩から清浄(涅槃)へ」へと切り替わることについて考えて行きます。「煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)」であるといいます。

人間は、仏の清浄な本質を持っているのに、なぜ煩悩によって不浄であるのかという疑問です。欲望、欲求、妄念、妄執を示す言葉である煩悩は、人が生きる時に感じる苦しみを生み出す一切合切、悟りの境地を妨げる一切の精神作用を含みます。

仏の清浄な本質(仏性)は、無我(自我を消すこと)になることによって開花します。というのは、人間は「自我で生きる」ことによって「煩悩に惑い不浄な状態」にいます。

本来の姿(無我)においては清浄であることを「自性清浄心」といいます。本来の無我の心は、清浄(涅槃)ですが、誕生後形成された「自我の元で生活する中でこびりついた煩悩」(主に感情から発生する苦)は、自我にくっついているだけですから、自我から離れればたちどころに心は清浄(涅槃)となります。

清浄心を得る方法として、神秀がしたように、煩悩を取り払う努力をすることで自我の執着力を弱めて悟りへと到達する漸悟か、慧能がしたように自我から離れる努力によって自我から無我へと頓悟するかの方法があります。

「煩悩と執着にまみれた自我」階層から一段高い「涅槃寂静な無我」階層へと相転移することが悟り(を開くこと)ですが、煩悩で汚れた自我階層から一段高い無我階層は自性清浄心ですから、無我(開悟)になれば、心は自ずと涅槃寂静となります。

涅槃寂静=解脱=悟りの境地:心が自我から無我への相転移。

前書きで述べたように、「直指人心」です。自らの心をひたすらに深く掘り下げて自我から無我へと相転移させましょう。禅宗は、わが心の内に仏を見ようとします。仏を外にあるものとは見ずに、わが心の内に宿るものと見ます。思えば「外に求めていた青い鳥はずっと我が家にいました」。もっといえば、わが心がそのままに仏であることを悟ろうとします(見性成仏)。

仏像は仏教美術としては素晴らしいものですが、心の中に鎮座する仏様を見るのには、かえって邪魔になりかねません。

7)仏性と修行 7-6)悟りとは

7-6)悟りとは

悟りについて次の「8)悟り」章で詳しく述べますが、ここでは道元の悟りについて述べていきます。上で述べたように道元は修行への疑問を抱いたまま中国に渡り修行を行います。禅師の元での修行中に、一人の修行僧が居眠りをしていたのを如浄禅師が、「参禅はすべからく身心脱落なるべし。只管に打睡して恁麼(いんも)を為すに堪えんや」と叱った声を聞いて悟りました。

注)道元の中国での禅師は、宋朝曹洞宗の代表的禅僧で、長翁如浄です。

悟りについて「ひろさちや」宗教評論家がいう。「人が悟りを得るのではなく、自我が心身脱落して無我となり悟り世界に沈み込むと、あたかもコーヒーに入れた砂糖がコーヒーに溶け込むように」と。

私達は本当は悟り世界に居ながら自我(という壁)を堅持して悟り世界に浸れないのかもと。つまり自我を消した途端悟り世界(無我世界)に居る自分を発見します。私達は、悟り世界という風呂の湯の中に浸かりながら、自我という分厚い衣をまとっていて実際には悟りの湯に浸っていないのかも知れません。悟りを開くとは、裸(無我)で悟り湯に浸っている状態であり、それが外からの音でメタ認知(自我)が蘇ったのかもと思います。

人間は幼い頃に自我が芽を出し、その自我をゆっくりと育て、いつしか自我を基礎に生活をしています。しかし、人間は自我から無我(仏性、仏の本質の開花)へと修行をして悟りを開く必要があります。社会の、世界の現状を見れば、このまま自我の元で暮らすのは、環境破壊が進み続けるように思えます。

個人(自我)中心から宇宙に溶け込む無我の元で暮らすのが仏教修行の目標だと感じます。つまり潜在している無我(仏性)を開花(顕在化)させて行く行為が修行です。あるいは仏性の開花を邪魔する自我を徐々に薄めて消去する行為が修行です。

西田は、「我々の自己は、唯、死によってのみ、逆対応的に神に接するのである」という。自己(自我)が死んで(即ち無我となって)、神に接するという。なお仏教用語に、ただちに悟りの境地に達することを頓悟といい、順を追って次第に自我を薄めて悟りに近づくことを漸悟といいます。