悟りは自我から無我への相転移

悟りは自我から無我への相転移。悟りを哲学、心理学、宗教、脳科学から解説します。

7)仏性と修行 7-7)何故煩悩を持っているのか

7-7)何故煩悩を持っているのか

認知機能を「自我から無我へ」と切り換えることで悟りを開きますが、もう一つの側面として、心が「煩悩から清浄(涅槃)へ」へと切り替わることについて考えて行きます。「煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)」であるといいます。

人間は、仏の清浄な本質を持っているのに、なぜ煩悩によって不浄であるのかという疑問です。欲望、欲求、妄念、妄執を示す言葉である煩悩は、人が生きる時に感じる苦しみを生み出す一切合切、悟りの境地を妨げる一切の精神作用を含みます。

仏の清浄な本質(仏性)は、無我(自我を消すこと)になることによって開花します。というのは、人間は「自我で生きる」ことによって「煩悩に惑い不浄な状態」にいます。

本来の姿(無我)においては清浄であることを「自性清浄心」といいます。本来の無我の心は、清浄(涅槃)ですが、誕生後形成された「自我の元で生活する中でこびりついた煩悩」(主に感情から発生する苦)は、自我にくっついているだけですから、自我から離れればたちどころに心は清浄(涅槃)となります。

清浄心を得る方法として、神秀がしたように、煩悩を取り払う努力をすることで自我の執着力を弱めて悟りへと到達する漸悟か、慧能がしたように自我から離れる努力によって自我から無我へと頓悟するかの方法があります。

「煩悩と執着にまみれた自我」階層から一段高い「涅槃寂静な無我」階層へと相転移することが悟り(を開くこと)ですが、煩悩で汚れた自我階層から一段高い無我階層は自性清浄心ですから、無我(開悟)になれば、心は自ずと涅槃寂静となります。

涅槃寂静=解脱=悟りの境地:心が自我から無我への相転移。

前書きで述べたように、「直指人心」です。自らの心をひたすらに深く掘り下げて自我から無我へと相転移させましょう。禅宗は、わが心の内に仏を見ようとします。仏を外にあるものとは見ずに、わが心の内に宿るものと見ます。思えば「外に求めていた青い鳥はずっと我が家にいました」。もっといえば、わが心がそのままに仏であることを悟ろうとします(見性成仏)。

仏像は仏教美術としては素晴らしいものですが、心の中に鎮座する仏様を見るのには、かえって邪魔になりかねません。