悟りは自我から無我への相転移

悟りは自我から無我への相転移。悟りを哲学、心理学、宗教、脳科学から解説します。

9)成長とそれを促進する理論・方法 9-8-2)環境と認知能力

9-8-2)環境と認知能力

生物発生原則に従って、生命は、その「認知能力」(情報収集処理加工能力)を長い年月をかけて進化(成長)させて来ました。人間(自我、意識、認知主体)は認知能力の幅広さにおいてその頂点にいます。パンだけで生きる動物から、人は神の言葉(意味や価値)を食べる人間へと進化しました。

それであっても無我から見れば不完全過ぎます。自我の精神面の成長を促進させるとともに、一足飛び的な自我から無我への転換(悟り、相転換)を必要とするのではないかと思わせられます。悟りは、相互対立する矛盾対立する個々の自我達を相互協力する無我へと止揚する弁証法的展開でもあります。

自我から無我への一瞬での相転移の事例を挙げます。例えば、初期キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人であり、はじめはイエスの信徒を迫害していたが、回心してイエスを信じる者となったパウロの例です。パウロはいう、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ人への手紙)。パウロ(自我)は、自分の中で自分(自我)が死に、それに代わってキリスト(無我)が生きているという。

私はこの事例に接して、西田の言葉を思い出します。「場所的論理」として「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」という表現を。パウロの事例に即していえば、「パウロはパウロを否定するところにおいてキリスト(真の自己)である」と。パウロ(自我)は自己否定することでキリスト(無我)になった。

この事例をアフォーダンス(環境が提供する情報[意味や価値])を使って説明すると、パウロ(自我)からキリスト(無我)に相転移(悟り)することで、アフォーダンス(環境)からの情報(意味や価値)の読み取り能力が、自我による選り好み的認知からあるがままを読み取る認知へと断トツに向上したということです。これを智慧という。般若(智慧)とは、悟りを開くことによって得られる(認知)能力、つまり無我に成ることで得られる、自我よりも格段に優れた「存在の本質を見通す」認知能力です。