悟りは自我から無我への相転移

悟りは自我から無我への相転移。悟りを哲学、心理学、宗教、脳科学から解説します。

9)成長とそれを促進する理論・方法 9-9-2)ロジャースのカウンセリング理論

9-9-2)ロジャースのカウンセリング理論

カウンセリングの実践方法を説明しましたが、ここではあらためてロジャースの「理論」を説明します。

ロジャースは「自己一致」という。それは、自分はこういう人間だという「頭で描いた自己概念」(意識的自己、理想的自己、自我)と「実際の経験」(現実的自己、無意識層も含めた自己全体)が一致(重なり)している領域が多い状態のことを意味します。

逆に「自己不一致」は、頭で描いた「自己概念」(自我)と矛盾・対立するために意識化することを否認(抑圧)されている実際の「経験の領域」(無意識層に抑圧されて沈んでいるが)」の大きな落差によって生じます。この自己不一致(による大きな落差)が心理的な問題や不適応をもたらします。というのは、その人を本当に動かしているのは経験の領域だからです。経験の領域には解離や抑圧されたコンプレックスや執着などが所属しています。

「9-5)「弁証法」」の所で述べたように、矛盾対立する事柄を統合することが成長をもたらします。心理学にとって統合とは、無意識にあるものの自覚(意識化)です。単なる知識として知るだけではダメなのです。カウンセリング的に自ら体験的に知って納得する必要があります。「ああ、それも自分なのだなあ」と納得した上で自分の中に取り込むことが不可欠です。同じ過ちを繰り返えさないためには、自らの中にある(であっても自分のものだとは認めない否認する)過ち体験を自覚的に冷静に意識化(意識内に取り込む)しなければ成長へとつながりません。

否認するのは恐怖心があるからです。それには、セラピスト(カウンセラー)が自己不一致するクライエントを、「無条件の肯定的配慮」(心理的安心感の提供)をしながら問題を(上から目線ではなく同じ目線に立って)「共感的に理解」し、それをクライエントにあたかも鏡に映し出す(クライアントのメタ認知機能を作動させる)かのように「伝達」することで、自己一致(自我への統合、意識化)に向けて進みます。瞑想はこれを自分(セラピスト役)が自分(クライエント役)に向かって行います。これは自覚であり、弁証法的展開でもあります。

 

9)成長とそれを促進する理論・方法 9-9-1)カウンセリングとは

9-9-1)カウンセリングとは

西欧で生まれた、心理的成長を促す方法としてカウンセリングがあります。ここではロジャースによって創始された「クライエント中心療法(来談者中心療法)」を中心に、カウンセリングを説明します。

先ずはカウンセリングの目的・目標から始めます。カウンセリングとは、「停滞するクライエントを再び成長へと向かわせる契機を提供する試み」です。

カウンセラー(心理師)が、クライエント(来談者)に対して原則として明確な解決策を直ちに提示はしません。例え提供したとしてもそれを成長に生かすことができないからです。というのは、成長できないのは知的な部分(情報的な無知)に原因があるからではないからです。既に解決となる情報群は実際には心の中にあるけれども、絡み合っているが故に苦悩をしている状況を少しずつ解きほぐして意識化する段階にまで至って初めて真の解決といえるからです。比喩的にいえば、その時の自我には大きすぎる食べ物(成長の糧だが取り込めないので苦悩する元)を砕いて飲み込んで消化吸収して血肉化するレベルへ細分化する過程を同行するのがカウンセリングです。

ということで知的な解決策を提供せずに、カウンセリングの場においてクライエントが自ら(の課題)に向き合い、両者の共同作業を通じて何回も「新しい理解や洞察に自発的にたどり着き」を繰り返して、カウンセリングが終結します。その後で、カウンセリングの経験を生かしてクライエントが実生活上の問題や悩みに「主体的に相対して行ける」ように導くことが、カウンセリングの目的であるからです。というのは、自我の認知能力が拡大することで、今まで対処できなかった問題を自己解決できるように導くのがカウンセリングの役割だからです。ごく簡単にいえば自我の認知能力を高めることです。

9)成長とそれを促進する理論・方法 9-8-2)環境と認知能力

9-8-2)環境と認知能力

生物発生原則に従って、生命は、その「認知能力」(情報収集処理加工能力)を長い年月をかけて進化(成長)させて来ました。人間(自我、意識、認知主体)は認知能力の幅広さにおいてその頂点にいます。パンだけで生きる動物から、人は神の言葉(意味や価値)を食べる人間へと進化しました。

それであっても無我から見れば不完全過ぎます。自我の精神面の成長を促進させるとともに、一足飛び的な自我から無我への転換(悟り、相転換)を必要とするのではないかと思わせられます。悟りは、相互対立する矛盾対立する個々の自我達を相互協力する無我へと止揚する弁証法的展開でもあります。

自我から無我への一瞬での相転移の事例を挙げます。例えば、初期キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人であり、はじめはイエスの信徒を迫害していたが、回心してイエスを信じる者となったパウロの例です。パウロはいう、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ人への手紙)。パウロ(自我)は、自分の中で自分(自我)が死に、それに代わってキリスト(無我)が生きているという。

私はこの事例に接して、西田の言葉を思い出します。「場所的論理」として「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」という表現を。パウロの事例に即していえば、「パウロはパウロを否定するところにおいてキリスト(真の自己)である」と。パウロ(自我)は自己否定することでキリスト(無我)になった。

この事例をアフォーダンス(環境が提供する情報[意味や価値])を使って説明すると、パウロ(自我)からキリスト(無我)に相転移(悟り)することで、アフォーダンス(環境)からの情報(意味や価値)の読み取り能力が、自我による選り好み的認知からあるがままを読み取る認知へと断トツに向上したということです。これを智慧という。般若(智慧)とは、悟りを開くことによって得られる(認知)能力、つまり無我に成ることで得られる、自我よりも格段に優れた「存在の本質を見通す」認知能力です。

9)成長とそれを促進する理論・方法 9-8-1)環境と「アフォーダンス」

9-8-1)環境と「アフォーダンス」

アメリカの心理学者ジェームズ・ジェローム・ギブソンは、認知心理学の学説として「アフォーダンス理論」を提唱しました。「情報は環境に存在し、人や動物はそこから意味や価値を見い出す」という。

アフォーダンス(情報[意味、価値])は環境の側に全てあり、認知主体(個体)はそれを探す(受け取る)だけです。この中の「環境」を「純粋経験」と置き換えると、人(自我、意識、認知主体)や動物は、個々の認知能力に応じてその環境(純粋経験)から意味や価値を見い出し、取り出します。

意識化とは、自覚とは、止揚とは、自分の外にある環境(純粋経験)から自分にとって有用な意味や価値を自分の内に取り込む行為です。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とキリストはいう。神を環境と置き換えると、人は環境(神)から食べ物も含めて情報的に有用な価値や意味(言葉)を受け取って生きるとなります。

9)成長とそれを促進する理論・方法 9-7)無分別智と仁

9-7)無分別智と仁

主体と客体を一つのもの(全体をあるがまま)として体験する純粋経験を、「他者のことを我がこととして捉える」視座として、人の心(脳)に、「共感」機能が備わって(内在して)います。具体的には、神経基盤として、下前頭回(前頭葉)の「ミラーニューロン」、「扁桃体」などの情動関連領域、「内側前頭前野」(メタ認知機能)を中心とするメンタライジング関連領域です。

注)メンタライジングとは、自己と他者の心理状態(感情や欲求や願望や考えや態度など)を振り返り気づく能力をいう。

西田はいう。私達は、(純粋)経験が先行します。つまり(自他、主体客体の分裂前の)共感が先行します。その後に主体(自我)と客体(対象や行為)とに前頭前野(メタ認知)がふるい分けします。西田は、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」という。禅宗では、自他未分の共感を重視します。無我同士ならば、自他未分の共感が可能です。普通は、自他分離の自我同士が個々のメタ認知機能で共感し合います。

話は変わって、性善説を唱える孟子が、「惻隠の情」という。例えば、幼児が井戸に落ちそうなのを見れば、とっさに哀れみの心(惻隠の情)、つまり利害損得を越えた自然の共感的感情が湧くという。これは自他未分の感情的共感だと感じます。禅宗ではその心(自他未分の共感、父母未生の本来の面目)を重視します。その瞬間にはまだ互いの自我が立ち上がっていません。ただ認識(無我)だけがあり、その後に自我(メタ認知)が作動します。

孟子は、「惻隠の心は仁の端なり」という。その内の「仁」について儒学者「程明道」は、「万物(万民)一体」と解釈し、「天地万物一体」を強調します。より具体的に説明すれば、天地万物を我が事のように「一体と認識する能力」を「仁」という。更に説明を加えると、多様な自然現象を秩序づけている法則を理と呼び、この理を直観によって把握する能力を仁という。これは王陽明の「心即理」と同じです。

仏教では、分析的な(自我的)理解である「分別」智に対する直接的かつ本質的な理解を(無我的)「無分別智」(自己に本来具わっている清らかな智慧の働き)という。「智慧」とは、あるがまま(純粋経験)を見る能力です。仁=無我=心即理=無分別智。

それに対して世界の全てを分ける(分解分析する)機能が知性です。主と客との分別をつけたものが、知識です。ジグソーパズルの絵柄を細かく分割してチップにする行為が知性です。私達は、エデンの園(純粋経験、無分別智の世界)に植えられていた智恵の樹(善悪を知る樹、二項対立的認識方式、分別智)の果実を食べたアダムとイヴの子孫です。仏教的には、エデンの園(楽園)に戻るには悟り(無我、分別をする自我の消滅)を開く必要があります。

9)成長とそれを促進する理論・方法 9-6)梵我一如の西田の「統一力」

9-6)梵我一如の西田の「統一力」

この章の「9-4-1)「純粋経験」とは」で、西田幾多郎の「善の研究」に出て来る「純粋経験」を取り上げましたが、ここでは同じく西田の「善の研究」に登場する「統一力」を取り上げます。私にとって、西田の「統一力」は、「なるほど、そういうことか」と納得が行った言葉でした。といっても読んだ直後ではなく何年もたってからのことですが。それはあたかもニュートンが「りんごの落下」を見て万有引力を発見した時のように。その時までバラバラだったピース達がその一言で、形を成す絵柄として統合された瞬間だったのです。

様々な異なるピースは、それらを統合する言葉、人、情報などなどが「核」となって統合されます。心理学においてそれをユングはコンプレックスと呼びました。様々な学問分野ではそれを「自己組織化」と呼びます。

注)自己組織化(自発的秩序形成)とは、物質や個体が、系全体を俯瞰する能力を持たないのに関わらず、個々の自律的な振る舞いの結果として、秩序を持つ大きな構造を作り出す現象をいう。

西田は、様々な用語を用いて、神を表現しています。この純粋意識(純粋経験)の統一力、意識の統一力、宇宙の統一力、統一的或者、超個人的統一、宇宙的意識統一、唯一の者の自発自展、唯一実在の唯一活動、有即活動、独立自全なる無限の活動、真の自己、真実在、神人合一、神人同体、精神と自然とを合一した者、宇宙の本体、宇宙の根柢たる一大人格、などともいう。

参禅して悟りを体験したといわれる西田は、人間の意識の根底には根源的統一力(梵我一如の「梵」(根源的統一力)と繋がった「我」(個別統一力))が働くという。善と悪、生と死といった様々な二項対立は、一見矛盾しているようだか、その働きをある「固定的視点(自我、二項対立の一面)から見る」ことで仮想的に見えているに過ぎないと、神の視点(止揚した統合点)から本来は「矛盾的自己同一」だという。

9)成長とそれを促進する理論・方法 9-5)弁証法とは

9-5)弁証法とは

茂木健一郎の「メタ認知的ホムンクルス論」では、「心(自己意識)は、脳内の各神経細胞や神経ネットワークの活動を俯瞰的な位置から見渡す機能(メタ認知的ホムンクルス)があり、主体(メタ認知)と客体(認知内容)に自己分裂させ、脳全体の変化を内部観察する」という。つまり自我(自己)意識は、メタ認知機能であるという。これは西田の「純粋経験」論に酷似しているように思えます。

西田の純粋経験論や茂木健一郎の「メタ認知的ホムンクルス論」は、弁証法だと感じます。というよりも、弁証法は、ものの変化・発展方式を一般化・理論化したものです。弁証法(特にヘーゲルによって定式化されたヘーゲル弁証法)とは、正反対(矛盾する)のもの、例えば、自然と人工、主観と客観、主体と客体、現実と意識、実践と理論などの対立を調停して、別のあり方の可能性をもたらすことです。西田は、上で述べたように、その弁証法を心(人格)の成長に適用していう。自覚とは、主観(知られる客体:認知内容)と客観(知る主体:メタ認知)を止揚(自覚)することだという。

弁証法は、世界や事物の「変化や発展の過程」を本質的に理解するための方法、法則という。宇宙全体を覆い尽くす宇宙原理を定式化した理論です。発展・成長・変化するものには、他と成りつつも同時に同一を保つという対立の統一が含まれているという。西田はそれを矛盾的自己同一という。

例えば、水(H2O)という統一体には、水素(H)と酸素(O)という異なる要素(原子・元素)で成り立ちます。宇宙はそのような様々な要素が「結合したり分解したり」で発展・成長・変化します。結合とは階層が上がることであり、分解とは階層が下がることです。極端に言えば、視点が上下しています。

中国の「陰陽」は、陽と陰とは互いに対立する属性を持った二つの気であり、万物の生成消滅と言った変化はこの二気によって起こるという。西田は、それを「矛盾的自己同一」という。論理学では、「二項対立」は互いに排他的だが全体のシステムを形成しているという。個(分解)から見るか全体(統合)から見るか。

9)成長とそれを促進する理論・方法 9-4-2)西田の自覚とは

9-4-2)西田の自覚とは

西田は分化(分裂)から自覚(統合)を通して、より高い階層に止揚するといいます。純粋経験(全体経験)から思惟や反省(メタ認知)へと分裂(細分化)したものを再度自覚(統合)という行為によって止揚(一段高い階層へと上昇)します。これはこの後で述べる弁証法です。成長は弁証法(的発展)を行使することです。要素を統合(統一)することで一段高い階層に止揚することが成長です。これは、まるごとのピザ(純粋経験)を細分化して一口ずつ食べられる大きさに切り分けて栄養化するべく消化吸収する行為でもあります。ピザ(純粋経験)を丸ごと食べられるのは神だけです。

自覚とは、「自分が自分を知ること」です。「知る自分」(メタ認知機能)と「知られる自分」(認知内容)とは、区別(分解)されねばならないと同時に、「同一の自分」(結合・統合)でもあり続けねばならない。西田幾多郎によれば、主客未分の知るものと知られるものとが一つである直観的意識(直観的認知内容)と、それを外側(意識)から眺める反省的意識(知る主体、メタ認知)とが内的に結合され、統一された状態、それが自覚です。(純粋)経験(正)し、反省(反)し、自覚(合)(反省内容を意識[自我]に取り込む)することで成長します。

9)成長とそれを促進する理論・方法 9-4-1)「純粋経験」とは

9-4-1)「純粋経験」とは

「西田幾多郎」の「善の研究」に「純粋経験」という言葉が登場します。「6)無我」章の「6-2-1-7)王陽明の知行合一」節で、ある程度説明しましたが、純粋経験(一瞬の悟り)とは、「主客未分の意識状態での経験」(父母未生以前の本来の面目)を表し、そこから思惟や反省(メタ認知)へと分化し分裂して行きます。結合から分解への変化です。

注)「本来の面目」とは、「すべての人が元々と持っている人為を加えない自然のままの心性」。つまり無為自然、無我です。

その純粋経験を道元はこう語ります。「諸仏のまさしく諸仏なるときは自己は諸仏なりと覚知することをもちいず、しかあれども諸仏なり、仏を証しもてゆく」と。

純粋経験中、悟り中、仏を証し中(諸仏中、仏を行じ中)は自己(覚知主・意識、メタ認知)が消失(心身脱落)(覚知できず)中です。その状態は、瞑想では「ディヤーナ」(心の動きが止まり無になっている)といい、仏教では「静慮・禅定」という。「禅定」によってどのような対象であっても集中したいと思っている限りずっと完全に集中し続けることができます(無我夢中)。

インド哲学の「梵我一如」に代表されるような「宇宙生命論」とは、一つの宇宙生命(神=絶対者=自然)が実在し、自他の区別、主客の区別は、そこから生じた現象世界における相対(分解)的なものにしかすぎず、全ての存在は宇宙生命を媒介にしてつながっているという思想です。仏教や西田哲学もその同じ系譜に属します。後で紹介する脳科学者「茂木健一郎」も同じ系譜に属します。

9)成長とそれを促進する理論・方法 9-3)意識化とは統合

9-3)意識化とは統合

次で述べる哲学者西田のいう自覚は、心理学的には意識化です。心理学は心を意識と無意識に分けることが多いです。意識化とは、無自覚な無意識層で行われる反射行動に言語などという仲介物(間接化)をはさむことによって、意識的(選択可能な)行動に変更、付け替え(加工・修正)をすることです。例えばフロイトの意識化は、無意識下のコンプレックス(抑圧されて意識にまで浮上できない心的複合体)を意識に昇らせることです。瞑想では、それを観察瞑想と呼びます。

注1)コンプレックスとは、反射的衝動・欲求・観念(考え)・記憶等の様々な心理的構成要素が無意識下で複雑に絡み合って形成された無形的観念の複合体を意味します。それが大きくなって人格化(意識を持つ)すると解離と呼ばれます。なお人格とは、心理学で個人に独自の行動傾向をあらわす「統一的全体」です。

注2)人格化するとは、独立した個人としての振る舞いをすることです。

無自覚・制御不可な反射行動(無意識)に言語という仲介物(間接化)を連結することによって意識的(選択・制御可能な)行動に変更することが意識化(自覚)ですが、このような意識化によって意識が制御できる事柄が増えていきます。成長とは、無意識内容の自覚(意識化)によって一つの「人格的な意識体系」へと統合統一して行く過程です。

9)成長とそれを促進する理論・方法 9-2-2-2)抑圧から統合へ

9-2-2-2)抑圧から統合へ

それに対して、心理学での用語である「抑圧」は、自我(意識)の手の届かない無意識に閉じ込める(圧し込める)ことです。抑圧は水平(上下)の壁(蓋)です。いずれにしても、ある一定の体験の記憶とそれを元にした思考が、通常の意識から切り離されるという点で解離と抑圧は同じです。しかし抑圧の場合には、記憶(経験)内容が(意識と無意識を持つ)人格との完全解離とまでは行かず、意識にまでは上らずに無意識に沈んだままで、時折意識に向けて影響を与えて来ます。

注)意識を持ってしまうと、独立した人格が形成されます。その意識を消失(喪失)してしまうと、独立した人格ではなくなります。これを悟りと呼ぶ場合もあります。つまり一つの肉体に一つの人格とは限らないのです。

私達にとって、そのような解離や抑圧された記憶(経験)を意識に統合することが成長につながります。というのは、自我人格から解離したり抑圧された記憶(経験)が執着とか煩悩とか雑念とか欲求として意識(自我)に影響を与えて来るからです。それらを意識に統合することで、人格の一部として制御可能となります。つまり同じシステムに統合された個別プログラムのように。

9)成長とそれを促進する理論・方法 9-2-2-1)解離から統合へ

9-2-2-1)解離から統合へ

解離(切り離し)は特に小さな解離は日常茶飯事として起こります。具体的には実際に痛みを感じなくなったり、苦痛を受けた記憶そのものが無くなる(乖離)ことがあります。あまりの苦痛によって精神が壊れてしまわないようにと防御するために、「痛みの知覚や記憶を自我から切り離す」ことを無意識に行ってしまいます。

例えば長い期間にわたり激しい苦痛を受けたり、何度も衝撃的な体験をすると、その度に解離が起こり、自我とは別に、苦痛を引き受ける「別の自我(別人格)が形成」されてしまい、その間の記憶や意識をその別自我(別人格)が引き受けて、元の自我には受け継がれず(統合されず)、一人の個人の中(心の中)にそれぞれの自我(主人格と副人格)が独立した記憶をもつようになります。

つまり多重人格です。二重人格の代表例として、小説の「ジキル博士とハイド氏」がよく引き合いに出されます。解離の場合は人格が相互に連絡はとれないが、それぞれの意識状態において異なった「意識と無意識」(つまり別人格)が形成されます。解離は、心の中の垂直(横間)の壁です。自我の中に別の独立した個室(別荘)を持つような感じです。