悟りは自我から無我への相転移

悟りは自我から無我への相転移。悟りを哲学、心理学、宗教、脳科学から解説します。

9)成長とそれを促進する理論・方法 9-4-1)「純粋経験」とは

9-4-1)「純粋経験」とは

「西田幾多郎」の「善の研究」に「純粋経験」という言葉が登場します。「6)無我」章の「6-2-1-7)王陽明の知行合一」節で、ある程度説明しましたが、純粋経験(一瞬の悟り)とは、「主客未分の意識状態での経験」(父母未生以前の本来の面目)を表し、そこから思惟や反省(メタ認知)へと分化し分裂して行きます。結合から分解への変化です。

注)「本来の面目」とは、「すべての人が元々と持っている人為を加えない自然のままの心性」。つまり無為自然、無我です。

その純粋経験を道元はこう語ります。「諸仏のまさしく諸仏なるときは自己は諸仏なりと覚知することをもちいず、しかあれども諸仏なり、仏を証しもてゆく」と。

純粋経験中、悟り中、仏を証し中(諸仏中、仏を行じ中)は自己(覚知主・意識、メタ認知)が消失(心身脱落)(覚知できず)中です。その状態は、瞑想では「ディヤーナ」(心の動きが止まり無になっている)といい、仏教では「静慮・禅定」という。「禅定」によってどのような対象であっても集中したいと思っている限りずっと完全に集中し続けることができます(無我夢中)。

インド哲学の「梵我一如」に代表されるような「宇宙生命論」とは、一つの宇宙生命(神=絶対者=自然)が実在し、自他の区別、主客の区別は、そこから生じた現象世界における相対(分解)的なものにしかすぎず、全ての存在は宇宙生命を媒介にしてつながっているという思想です。仏教や西田哲学もその同じ系譜に属します。後で紹介する脳科学者「茂木健一郎」も同じ系譜に属します。