悟りは自我から無我への相転移

悟りは自我から無我への相転移。悟りを哲学、心理学、宗教、脳科学から解説します。

7)仏性と修行 7-3)修行することへの疑問

7-3)修行することへの疑問

道元は、比叡山に入ってすぐに、一つの疑問に行き当たります。人は仏の本質を持っているのに何故修行する必要があるのかと。

具体的には、「仏教においては、人間はもともと仏性(仏の性質)を持ち、そのままで仏であると教えている。なのに、人はなぜ仏になるための修行をせねばならないのか」(「本来本法性、天然自性身」「若しかくの如くならば、三世の諸仏、甚によってか更に発心して菩提を求むるや」)と疑問を抱きました。

つまり、「我々は本来すでに仏性を具えており、その本性は清浄である」「なのに、なにゆえに3世の諸仏たちは発心して更に悟りを求める必要があるのか」との疑問です。

注)比叡山は、日本仏教の母山とも称されます。日本仏教の各宗の祖師(法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人、栄西禅師、道元禅師、日蓮聖人など)がここで学んでいます。

「修行することへの疑問」への回答なのですが、「4)脳と前頭前野」章の「4-4)成長(成熟)とは」節で、脳は構造として全ての人間に遺伝的に備わっているが、経験しなければ機能しないと述べました。これを仏教修行に当てはめると、仏性(構造)という形で生れつき備わっているけれども、修行(経験)しなければ機能しないといえます。「直指人心見性成仏」です。

私達人間には、様々な能力が構造という形で潜在しているけれども、修行(経験)していかなければ、顕在化(開花)しません。鳥のひなは親を定める構造(潜在能力)を持つが、保護者に出会わなければ開花しません。私達人間には言語を使う能力(構造)を潜在するが、実際に言語に接しなければ開花しません。私達は実に様々な能力の種を潜在的に持っていますが、出会って経験していかなければ開花しません。