悟りは自我から無我への相転移

悟りは自我から無我への相転移。悟りを哲学、心理学、宗教、脳科学から解説します。

6)無我と執着 6-3-4)老荘思想と無為自然

6-3-4)老荘思想と無為自然

千利休のところで、「道」という言葉が出たので、ここで老荘思想、道、無為自然を取り上げます。老荘思想は、簡単にいえば無為自然を説く思想です。無為自然とは、作為(人為)がなく、宇宙のあり方に従って自然のまま(あるがまま)であることを意味します。これは、自我から来る作為(人為)ではなく、仏教での仏心の「無我」に近い考え方です。つまり作為(人為)を自我と読み替え、無為自然を無我と読み替えると、自我(作為・人為)をなくして、無我(無為自然)のままに生きるとなります。老荘思想が無為自然を説くのは、人も自然の一部だから、人為で生きるのではなく、自然が持つ原理(道)に逆らわず無為自然に沿った生き方をすべきだと考えるからです。

老荘思想は、「儒家」が説く「礼や徳を人為的」だとして否定します。そのような不自然で作為的な行いをせず、無為自然でこの世が治まるということを説きます。

私には、儒家(孔子)が性悪説を拠り所とし、老荘思想は性善説を拠り所としていると思えます。荀子が唱えた性悪説は、人間の本性(自性、天性)は欲望に弱いので、後天的な教育や努力により、公共的な善を教えることで礼儀や考え方を正せるという教えです。

それに対して性善説は本性は善であるが、ほうっておくと自我が暴走して悪を行うから教育やしつけが必要だと説きます。これは、神秀と慧能の理論争いと同じです。神秀=性悪説=儒教、慧能=性善説=老荘思想と見ます。

ほうって置いても無為自然に到達するわけではないので、無為自然に関して「荘子」に「坐忘」という言葉があります。それは、「五体から力を抜き去り、一切の感覚をなくして、身も心も虚になった状態」をいいます。つまり「虚心、無心、無我の境地」です。

あらためて、私には仏教は性善説(仏性)を説いていると思えます。自我という仮面を取り払うと仏(無我)だったとわかります。