悟りは自我から無我への相転移

悟りは自我から無我への相転移。悟りを哲学、心理学、宗教、脳科学から解説します。

6)無我と執着 6-3-2-2)神秀と慧能の問答

6-3-2-2)神秀と慧能の問答

神秀と慧能の問答。「身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し、時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむること勿れ」(心は鏡のように清浄なものだから、常に掃除して塵やほこりが着かないように勤めなさい)と神秀はいう。それを聞いて師の弘忍禅師はまだまだ自分の意に適っていないことを知りました。

それに対して、慧能は、「菩提本と樹無し、明鏡亦た台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵挨を惹かん」(仏心には菩提樹とか明鏡台などというとらわれ(執着心)は無い、無一物である、それなのに何処に塵挨を着けようというのか)という。

これを見た弘忍禅師は慧能を次の六祖にと決めました。というのは、神秀はまだ自我側に意識を置いて(自我を実在のものとして)自我に着く執着を払拭せよと説きます。それに対して慧能は既に無我(仏心)側に渡り切っています。自我を立てると執着が生じるが、無我(仏心)という無(無一物)には執着は生じません。河に杭を立てると、ゴミが引っ掛かるが、杭が無ければ水はただただスムースに流れます。