悟りは自我から無我への相転移

悟りは自我から無我への相転移。悟りを哲学、心理学、宗教、脳科学から解説します。

6)無我と執着 6-3)執着(無執着)についてあれこれ 6-3-1-1)臨済義玄

6-3)執着(無執着)についてあれこれ

執着とは何かということについて一般的なことを述べましたが、ここからは「執着」に関して過去に苦悩して悟りを開いてきた人々の声を聞いてみましょう。

 

6-3-1-1)臨済義玄

先ずは、中国唐時代の禅僧で臨済宗の開祖の「臨済義玄」(806~867)が語った「臨済録」(臨済義玄の言行をまとめた語録)という著書からの日本語訳を紹介します。

「臨済録」の「示衆」(章)に、「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ」という表現があります。仏や祖に会う努力はせよ、だが執着するな、そこに留まるな、そこで安住するな、否定せよと強く迫ります。束縛され、不自由さを感じる対象を否定して「自由になれ」と呼びかけます。「執着(束縛)」の反対は「自由(解脱)」です。つまり自我=執着、無我=自由です。

その文章にはその後に「始めて解脱を得ん」とあります。「解脱」とは、「苦悩や束縛から開放され自由」になることです。自我とは執着心の源ともいえます。赤ん坊には、保護し養育してくれる存在が必要不可欠ですが、最終的にはそこから自立して行く必要があります。無我とはあらゆる存在から自立して自由を勝ち取って行く行為です。

注)「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親類に逢うては親類を殺せ。始めて解脱を得ん」。