悟りは自我から無我への相転移

悟りは自我から無我への相転移。悟りを哲学、心理学、宗教、脳科学から解説します。

9)成長とそれを促進する理論・方法 9-7)無分別智と仁

9-7)無分別智と仁

主体と客体を一つのもの(全体をあるがまま)として体験する純粋経験を、「他者のことを我がこととして捉える」視座として、人の心(脳)に、「共感」機能が備わって(内在して)います。具体的には、神経基盤として、下前頭回(前頭葉)の「ミラーニューロン」、「扁桃体」などの情動関連領域、「内側前頭前野」(メタ認知機能)を中心とするメンタライジング関連領域です。

注)メンタライジングとは、自己と他者の心理状態(感情や欲求や願望や考えや態度など)を振り返り気づく能力をいう。

西田はいう。私達は、(純粋)経験が先行します。つまり(自他、主体客体の分裂前の)共感が先行します。その後に主体(自我)と客体(対象や行為)とに前頭前野(メタ認知)がふるい分けします。西田は、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」という。禅宗では、自他未分の共感を重視します。無我同士ならば、自他未分の共感が可能です。普通は、自他分離の自我同士が個々のメタ認知機能で共感し合います。

話は変わって、性善説を唱える孟子が、「惻隠の情」という。例えば、幼児が井戸に落ちそうなのを見れば、とっさに哀れみの心(惻隠の情)、つまり利害損得を越えた自然の共感的感情が湧くという。これは自他未分の感情的共感だと感じます。禅宗ではその心(自他未分の共感、父母未生の本来の面目)を重視します。その瞬間にはまだ互いの自我が立ち上がっていません。ただ認識(無我)だけがあり、その後に自我(メタ認知)が作動します。

孟子は、「惻隠の心は仁の端なり」という。その内の「仁」について儒学者「程明道」は、「万物(万民)一体」と解釈し、「天地万物一体」を強調します。より具体的に説明すれば、天地万物を我が事のように「一体と認識する能力」を「仁」という。更に説明を加えると、多様な自然現象を秩序づけている法則を理と呼び、この理を直観によって把握する能力を仁という。これは王陽明の「心即理」と同じです。

仏教では、分析的な(自我的)理解である「分別」智に対する直接的かつ本質的な理解を(無我的)「無分別智」(自己に本来具わっている清らかな智慧の働き)という。「智慧」とは、あるがまま(純粋経験)を見る能力です。仁=無我=心即理=無分別智。

それに対して世界の全てを分ける(分解分析する)機能が知性です。主と客との分別をつけたものが、知識です。ジグソーパズルの絵柄を細かく分割してチップにする行為が知性です。私達は、エデンの園(純粋経験、無分別智の世界)に植えられていた智恵の樹(善悪を知る樹、二項対立的認識方式、分別智)の果実を食べたアダムとイヴの子孫です。仏教的には、エデンの園(楽園)に戻るには悟り(無我、分別をする自我の消滅)を開く必要があります。