悟りは自我から無我への相転移

悟りは自我から無我への相転移。悟りを哲学、心理学、宗教、脳科学から解説します。

6)無我と執着 6-3-5)沢庵宗彭と不動智神妙録

6-3-5)沢庵宗彭と不動智神妙録

次に「不動智神妙録」を紹介します。その著書は、江戸時代初期の禅僧「沢庵宗彭」(宮本武蔵の師)が執筆した「剣法(兵法)と禅法の一致(剣禅一致)を説く(柳生宗矩に与えた書簡を集めた)書物です。千利休は、禅の(根本)精神を茶の湯に注ぎ込み茶道を完成させました。禅僧沢庵宗彭は、禅の(根本)精神を剣術に注ぎ込み武道(剣禅一致)を創設しました。

なおこの著書「不動智神妙録」名に「不動」とあるが、動かないというわけではなく、逆に心(意識)は自由自在に動かし、一つの物事に全く心を捉われない(無執着な)態度を「不動智」という。仏教における無執着(無我)が武道におけてはどのように表現されているのでしょうか。

「向ふへも左へも右へも、十方八方へ心は動き度きやうに動きながら、卒度も止まらぬ心」を不動智と説明します。その外にも「葉一つに心をとられ候わば、残りの葉は見えず、一つに心を止めねば、百千の葉みな見え申し候」ともいう。「何処なりとも一所に心を置けば、余の方の用は皆欠くなり。何処にも置かねば我が身いっぱいに行きわたりて、全体に延びひろごりてその入る所々の用を叶うなり」とも説きます。

「3)意識」の章で、意識を三段階に分けました。無我とは、意識に関しては、三段階目の「注意」という何かに「向かう」「能動」性意識(自我)ではなく、二段階目の平等で漂うように「受動」性意識か、あるいは一段階目の覚醒意識であらゆるものごとを五感全体で「受け取り」ます。ここで意識は自由自在に拡がると述べられています。

なお沢庵禅師は、「無明住地煩悩」ともいう。無明=迷い。物毎に心の止まる所を住地という。無明=迷い=住地=執着=煩悩。

不動智と同じような意味として、固定的なとらわれがなくなった状態を、無心、虚心、無念無想ともいう。これは無為自然の心(態度)とほぼ同じです。