悟りは自我から無我への相転移

悟りは自我から無我への相転移。悟りを哲学、心理学、宗教、脳科学から解説します。

6)無我と執着 6-3-7)王陽明の知行合一

6-3-7)王陽明の知行合一

悟り(無執着、無我)は、理論的に(頭で)理解できるだけではなく、その理論を実行(無意識化)にまで落とし込めるかどうかです。神秀に留まるか慧能へと転生できるのか。慧能のように「言行一致」しなければならなりません。王陽明(中国の明時代)が興した学問である陽明学の命題は、「知行合一」です。「知って行わないのは、未だ知らないことと同じであり、知っている以上は必ず行いに現れる」という。

それに対して朱熹の朱子学が、万物の理を極めてから実践に向かう「知先行後」だと述べました。陽明学は、朱子学の「知先行後」を批判して、王陽明

は「知行合一」だと主張しました。

その根拠を王陽明は、「心即理」(人間の心の中に理は備わっている)という「龍場の頓悟」(龍場の大悟)と呼ばれる悟りを開きました。つまり「真理は人間の内(心)にある」と悟りました。心(無我状態)に分析(メタ認知機能)を加えず、その生き生きと働く当体(純粋経験)をただちに理(真理)とみなし「心即理」という。

つまり朱子学は、自我側(メタ認知、分析)してからの行為、メタ認知を通した上での行為を推奨します。それは神秀と同じ態度です。それに対して陽明学は無我側からの直接行為を推奨します。これは慧能と同じ態度です。別の言い方をすれば、梵(宇宙原理)我(無我)一如です。我(心)が無我状態(空箱)であれば、直ちに直接に宇宙原理(真[理]、法)を受け取れます。

明治から昭和にかけて生きた哲学者西田幾多郎は、「善の研究」で「経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである」とメタ認知起動前の経験を純粋経験という。

王陽明は、それを「心即理」(心に理を直接受ける)という。後天的にこびりついた利欲(執着、自我、煩悩)を除去して本心(無我、無為自然)の輝きを回復せよとも説きました。