悟りは自我から無我への相転移

悟りは自我から無我への相転移。悟りを哲学、心理学、宗教、脳科学から解説します。

6)無我と執着 6-4-3)無我夢中とメタ認知

6-4-3)無我夢中とメタ認知

鎌倉時代初期の禅僧で、日本曹洞宗の開祖の道元が、無我夢中状態をこういいます。「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」と。

メタ認知とは、自分をもう一段上から俯瞰する機能です。つまり、普段は自分(認知機能、精神活動)とメタ認知(自我意識・自己意識)とは(別々の機能として)分離しているが、無我夢中時には、メタ認知も一体となって課題遂行に参加しているので、自我意識は機能停止(心身脱落)(ただわが身をも心をもはなちわすれ)しています。だからその点では無我ともいえます。本物の悟りと異なるのは、無我夢中では、そこから脱すると、すぐさま自我(メタ認知)が起動します。それに対して、夢遊病では、意識レベルが低く、ましてやメタ認知機能(前頭前野)は単に停止(休止)しています。悟りでは意識は起動しているが、メタ認知は起動していません。

厳密に表現するならば、自我意識の本体は島皮質にありますが、その自我意識を帯状回(帯状皮質)を介して受信するのがメタ認知です。それを表現しているのが、道元禅師の「正法眼蔵」に「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく」です。私は、覚知とはメタ認知だと考えています。仏(悟り、無我、無我夢中)の間は覚知(メタ認知)しないという。

「万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし」という(無一物です)。「万法ともにわれにあらざる」=「諸法無我」では、一切の囚われ(束縛、執着、悟り、無一物)がないので、無分別(まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし)です。それに対して、分別とは、意識と無意識、自我(まどひ)と無我(さとり)、善と悪というように、二分されてバラバラに分けることです。それらを分別するのが自我です。