悟りは自我から無我への相転移

悟りは自我から無我への相転移。悟りを哲学、心理学、宗教、脳科学から解説します。

7)仏性と修行 7-6)悟りとは

7-6)悟りとは

悟りについて次の「8)悟り」章で詳しく述べますが、ここでは道元の悟りについて述べていきます。上で述べたように道元は修行への疑問を抱いたまま中国に渡り修行を行います。禅師の元での修行中に、一人の修行僧が居眠りをしていたのを如浄禅師が、「参禅はすべからく身心脱落なるべし。只管に打睡して恁麼(いんも)を為すに堪えんや」と叱った声を聞いて悟りました。

注)道元の中国での禅師は、宋朝曹洞宗の代表的禅僧で、長翁如浄です。

悟りについて「ひろさちや」宗教評論家がいう。「人が悟りを得るのではなく、自我が心身脱落して無我となり悟り世界に沈み込むと、あたかもコーヒーに入れた砂糖がコーヒーに溶け込むように」と。

私達は本当は悟り世界に居ながら自我(という壁)を堅持して悟り世界に浸れないのかもと。つまり自我を消した途端悟り世界(無我世界)に居る自分を発見します。私達は、悟り世界という風呂の湯の中に浸かりながら、自我という分厚い衣をまとっていて実際には悟りの湯に浸っていないのかも知れません。悟りを開くとは、裸(無我)で悟り湯に浸っている状態であり、それが外からの音でメタ認知(自我)が蘇ったのかもと思います。

人間は幼い頃に自我が芽を出し、その自我をゆっくりと育て、いつしか自我を基礎に生活をしています。しかし、人間は自我から無我(仏性、仏の本質の開花)へと修行をして悟りを開く必要があります。社会の、世界の現状を見れば、このまま自我の元で暮らすのは、環境破壊が進み続けるように思えます。

個人(自我)中心から宇宙に溶け込む無我の元で暮らすのが仏教修行の目標だと感じます。つまり潜在している無我(仏性)を開花(顕在化)させて行く行為が修行です。あるいは仏性の開花を邪魔する自我を徐々に薄めて消去する行為が修行です。

西田は、「我々の自己は、唯、死によってのみ、逆対応的に神に接するのである」という。自己(自我)が死んで(即ち無我となって)、神に接するという。なお仏教用語に、ただちに悟りの境地に達することを頓悟といい、順を追って次第に自我を薄めて悟りに近づくことを漸悟といいます。