悟りは自我から無我への相転移

悟りは自我から無我への相転移。悟りを哲学、心理学、宗教、脳科学から解説します。

8)悟りと漸悟 8-2-1-2)自我を越え出る感覚(自我意識)

8-2-1-2)自我を越え出る感覚(自我意識)

悟りに近づくにつれて、仏教を信じる人々は、自分という感覚(意識)が広い空間いっぱいに拡大したと感じます。あるいは空間に漂い出す感覚を覚えます。科学の世界で、電磁気で脳の右側頭頂葉の「角回」を刺激すると、被験者の意識が2メートルほど舞い上がり、天井付近からベッドに寝ている自分を見るという幽体離脱を経験したそうです。つまり意識は身体に限定されるものではないことを表します。

例えば中国から臨済宗を持ち帰った栄西禅師の「興禅護国論」の序文を紹介します。

「大いなる哉、心や天の高きは極む可(べ)からず、しかも心は天の上に出づ。地の厚きは測る可からず、しかも心は地の下に出づ。日月の光はこゆ可からず、しかも心は、日月光明の表に出づ。

大千沙界は窮むべからず、しかも心は大千沙界の外に出づ。それ太虚か、それ元気か、心は則ち太虚を包んで、元気を孕むものなり。

天地は我れを待って覆載し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生す。大なる哉、心や」。

この自我(意識)の超出感覚を、キリスト教では、神(イエス、精霊)との一体化などという表現を使います。自分(意識)が自分の身体だけに収まっているのではなく、より大きな存在と一体化するという感覚を持ちます。

悟りの初期の段階では、自我は自分を越えて拡張し、あらゆるものに繋がっている感覚です。途中段階(この時期は長い)では、自我は脳内に残っており、都度都度その自我が浮上して来ます。最終段階になると、自我という感覚は完全に消滅します。

梵我一如について、「宇宙を支配する原理」である梵(ブラフマン)と、個人を支配する原理である我(アートマン)。アートマン(我)とは、「目に見えない視覚の主体、耳に聞こえない聴覚の主体、思考されない思考の主体、認識されない認識の主体」です。感覚機能はあるが、感覚主体は存在しない。私の感じでは、我とは「認識する個人内機能」(自我意識)ではないかと思います。