悟りは自我から無我への相転移

悟りは自我から無我への相転移。悟りを哲学、心理学、宗教、脳科学から解説します。

2)自我と島皮質 2-1-1)デカルトの自我

2-1-1)デカルトの自我

デカルト(1596~1650)は、フランス生まれの哲学者で、合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖でもあります。彼は、自我を「思惟する実体」という。その思惟とは、「疑い、知解し、肯定し、否定し、欲し、欲せず、また想像もし、そして感覚する」行為です。つまり思惟は、大まかには「精神活動全般」を含みます。デカルトは、1)疑う(思う、思惟)という行為、そして、その行為の2)主体である「我」の存在は疑えないという。ということで我の存在を肯定しました。精神活動とその主体(我)は存在しそれがあらゆる事柄の根源であるという。

でも、そこに疑問が湧いてきます。思わないならば、少なくとも思わない間は、我の存在は「ありなのでしょうか」「なしなのでしょうか」。それに対して仏教は、「我思わぬ、故に我無し」として宗教をします。つまり、我思うとしてデカルトが哲学をし、我思わぬとして仏教が宗教をします。

なお中世の哲学者デカルトは魂は存在すると公言しました。魂や霊魂、自我、精神、意識、などと呼ばれる「能動性」を持った「心的実体」があるという。